attitude

Namaste

 

オリンピック前後、コロナ感染者が東京都で5000人を超えたころ、わたしの周りでも感染者が増え、職場では危機管理が強まり、わたしは在宅勤務になり、絶えず緊張感もあり、とても落ち着かない日々を過ごしていました。

 

その中でも、オンラインでサンスクリット語のクラス、対面のヴェーダーンタクラスも開催されていましたが、さすがに対面クラスは人が集まりにくい状況でした。

 

それは、普通に考えたら当然の話です。

 

ところが、こんな状況でクラスを開き、こんな状況でもクラスに来てくださいとおっしゃるのは、どれほど意味があるのか、そして集まることは正しい行いなのか?ダルマなのかと、とうとう自分の考えの限界にきたわたしは先生にご質問しました。

 

ダルマにも種類があり、また状況に応じて変化をするのだということ、政府や国の決めるダルマや、聖典に関わるダルマがあること、また自分や家族のためのダルマもあるので優先事項を考えてのクラス参加を、そしてこのような時期に奇跡的に行われている貴重なクラス、ということもよく考えてください、とのお返事でした。

 

まさに、バガヴァッドギーターのシーン、戦場で何をするべきかを教えてもらうアルジュナのように、このあと先生や仲間たちと対話を続けることになります。

 

正直に言うと、その時、自分が混乱している時には、なかなか人の声が受け入れられません。だって集まっちゃいけないのでしょう?なぜ集まってクラスをするの?その考えにとらわれたまま、他の言葉が聞こえない。そして混乱したマインドのまま、いろんな人と話すので、いろんな人を傷つけてしまう。大事なクラスを忘れたり、スケジュール調整ができないオーガナイズをしてしまったり、そして体調を崩してしまったり。

 

この渦中で気づいたのは、学ぶ者の態度でした。

自分が、自分が、自分がそう思う、自分がそうだと思ってた、自分がこうするべき、という自分がというアハンカーラで、物事に取り組むと、聖典や先生の言葉もすっかり身につきません。

先生のおっしゃっていることに疑問ばかり生じます。

 

チャンティングですら、自分がチャンティングする、というかデーヴァターたちにお任せする、くらいのリラックスした気持ちで臨むとよいのだそう。

 

そして10月のビシャヤダシャミーは、そのような混乱から少し抜けて、新しいパーニニ文法のクラスもスタートさせることができました。

 

ここまで来るのに、オンラインクラスという、とても難しい壁がありました。

そこでは、生徒が先生に対してのナマスカーラやセーヴァ、コミットメントがわかりにくい、という点です。

どうしたら、先生たちの足にナマスカーラするくらい近づけるか?

それはとても難しいことでした。

 

なので、最初のはなしに戻ると、貴重な対面クラスというのは、そういう場でもあったのです。

 

わたしは文法が好きで、いつまでも、ほっておくと文法の勉強をずっとしてしまうのですが、机上の勉強だけしていても意味がないのは、このようなナマスカーラやセーヴァに欠けているからだということも、この機会に痛いほど気づいたのです。

 

そして、先生が「やってみなさい、やるといいですよ」ということは必ずやってみることにしました。

早朝の沐浴、プージャー、コーラム、チャンティング、エーカダーシーの断食、などももちろん、勉強方法も。

そうすると、できないことは何一つありませんでした。

インドと日本は違うから、というのも簡単な言い訳に過ぎないのだと感じます。

 

そして、日常のこのような態度や行いをしていると、自然と文法の勉強もはかどったりします。混乱や無知も遠ざかっていくのです。

 

混乱や無知に迷い込んだ夏、そこに光がさしてきたヂーパワリーの日にこの記事を書いています。